政経倶楽部【東京】第163回例会(朝食会) 7/5 木
日時:2018年7月5日 開会:~ (開場:)会場:ルポール麹町 東京都千代田区平河町2-4-3 TEL03-3265-5365 有楽町線「麹町駅」 1番出口より徒歩3分. 有楽町線・半蔵門線 「永田町駅」 5番出口より徒歩5分.
オウムとの戦い~危機管理の立場から
■講演 井上 幸彦 氏 元警視総監(第80代)
「オウムとの戦い~危機管理の立場から」
【井上幸彦(いのうえ・ゆきひこ)氏 プロフィール】
1937年(昭和12年)山梨県甲府市生まれ。
1962年(昭和37年)京都大学法学部 卒業後、警察庁入庁。
外務省、警視庁、在イタリア日本大使館、千葉県警察等の勤務を経て、1994年(平成6年)9月、第80代警視総監に就任。
翌1995年(平成7年)3月、オウム真理教による無差別毒ガステロ、地下鉄サリン事件では、山梨県上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)の教団施設の捜査、被害者救出等、一連のオウム事件の解決への陣頭指揮にあたる。
1996年(平成8年)12月退官(在任期間2年3か月)。
2008年(平成20年)瑞宝重光章受賞。
公益財団法人日本盲導犬協会理事長、公益財団法人合気道養神会理事長、学術社団日本安全保障・危機管理学会副会長などを務めている。
【解説】
◆オウム真理教
東京都内でヨガ教室を開いていた松本智津夫死刑囚が1984年2月、「オウム神仙の会」を発足。87年「オウム真理教」に改称。若者中心の信者数は、95年のピーク時には、海外拠点を含め1万人を超えた。殺人を「ポア」と呼び正当化する危険な教義で、化学兵器などを用いて数々のテロ事件を引き起こした。
◆地下鉄サリン事件(1995年3月20日)
オウム三大事件(89年11月・坂本堤弁護士一家殺害事件、94年6月松本サリン事件)の一つ。日本犯罪史上最悪の無差別大量殺戮事件。1995年3月20日午前8時頃、営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線、千代田線、丸ノ内線の3路線の5列車に猛毒の神経ガス「サリン」が撒かれ、13人が死亡、6000人以上が負傷した。「上九一色村でサリン残留物が検出」。同年1月1日の読売新聞に掲載されたこの記事を受け、教団に対する強制捜査が行われるのではないかとの危機感を強めていた松本死刑囚は、東京都心で無差別テロを実行すれば大惨事となり、強制捜査を回避できると考え、事件を計画。実行犯らは、警察や検察、裁判所の幹部が利用する霞ヶ関駅を通る3路線の車内で、新聞紙に包まれたサリン入りビニール袋を傘で突き刺すなどし、サリンを発散させた。
警察は2日後の3月22日、山梨県上九一色村など1都2県の教団関連施設を一斉捜査した。
●事件は、なぜ防げなかったのか?→警察は「宗教」をタブー視していた
私は、1994年9月から1996年8年12月の約2年3か月にわたり、第80代警視総監を務めた。この時期は、許しがたい犯罪集団、オウム真理教との戦いの日々であった。
1995年、3月20日、オウムは未曽有の大量殺戮テロを実施した。残念ながら私共は未然にこれを防ぐことができなかった。
「なぜ、防げなかったのか」。それは、宗教をタブー視していたからだ。オウムはあくまでも「宗教団体」と称していた。警察は、宗教団体に対して、視察や情報収集などうかつに対応すると「信仰の自由を侵したではないか」と反撃をくらい、世論からも非難を浴びる。よって、戦後、宗教団体に対する事件の検挙というものはなされていなかった。
しかし、オウム事件後は、反省に基づき、宗教へのタブーがとれた。その後、岐阜県下を中心に起きた白装束集団の動きは、警察は早くから視野に入れ、彼らの動向を押さえ、内部の暴行事件等で検挙できた。
時代時代の動きによって、一面的な偏見を持たず、罪を犯す可能性、あるいは罪を犯した者があれば、敢然としてとして対処して行く。
警察は、その姿勢で臨んでいる。
※続きは会員専用ページでご覧いただけます。