政経倶楽部【東京】第167回例会(朝食会) 11/1 木

日時:2018年11月1日  開会:~ (開場:)
会場:ルポール麹町 東京都千代田区平河町2-4-3 TEL03-3265-5365 有楽町線「麹町駅」 1番出口より徒歩3分. 有楽町線・半蔵門線 「永田町駅」 5番出口より徒歩5分.
 

激動する朝鮮半島情勢と日本

■講演 西岡 力(にしおか・つとむ)氏 

 麗澤大学客員教授・モラロジー研究所歴史研究室長
 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)会長


「激動する朝鮮半島情勢と日本」


【西岡 力 氏 プロフィール】

昭和31年東京生まれ。韓国・延世大学国際学科留学(交換留学生)。
国際キリスト教大学卒業。筑波大学地域研究科修了(国際学修士)。
外務省専門調査員(在韓日本大使館)、『現代コリア』編集長、
東京基督教大学教授を経て、現在、麗澤大学客員教授、モラロジー研究所歴史研究室長。公益財団法人国家基本問題研究所企画委員。
平成9年に拉致家族会を支援する救う会の設立に参与し、現在「救う会」会長。第30回「正論大賞」受賞。
『横田めぐみさんたちを取り戻すのは今しかない』PHP研究所
『ゆすり、たかりの国』WACなど、朝鮮問題、慰安婦問題等に関する著書多数「救う会」 http://www.sukuukai.jp/


【拉致問題】経緯 事案発生から政府「拉致問題対策本部」設置まで

1977年 拉致事案発生(久米裕さん、松本京子さん、横田めぐみさん)
1978年 拉致事案発生(田中実さん、田口八重子さん、地村保志・富貴惠さん、蓮池薫・祐木子さん、市川修一・増元るみ子さん、曽我ひとみさん、曽我ミヨシさん)
1980年 拉致事案の発生(石岡亨さん、松木薫さん、原敕晃さん)
1983年 拉致事案の発生(有本恵子さん)
1988年3月 参議院予算委員会にて、梶山静六国家公安委員長が歴史的答弁。
「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚だ」。報道はされず。
1990年9月 金丸・田辺訪朝。金日成に会うも拉致問題を議題に出さず。
1991年~ 「機会あるごとに北朝鮮に対して拉致問題を提起。北朝鮮側は頑なに否定」とあるが、実態は8回中議題にしたのはわずか1回。
1997年 3月 「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」結成
2002年 9月 第1回日朝首脳会談(於:平壌)。日朝平壌宣言に署名。
      金正日国防委員長自らが拉致問題を認め、謝罪。
事実調査チームの派遣
10月 拉致被害者5名が帰国(5名の家族は2004年に帰国)
2006年9月 拉致問題対策本部設置(第一次安倍政権)


◆資料①「北朝鮮による日本人拉致問題-1日も早い帰国実現に向けて!」
https://www.rachi.go.jp/jp/shisei/keihatsu/pdf/shinsasshi201706.pdf

◆資料②すべての拉致被害者の帰国をめざして -北朝鮮側主張の問題点」
https://www.rachi.go.jp/jp/shisei/keihatsu/mondaiten_jp.pdf
制作:政府 拉致問題対策本部


●拉致問題が長く解決できないのは、政府もマスコミも黙殺し続けたから

拉致問題は、なぜこんなに長く解決できないままなのか。
それは、最大の人権侵害ともいうべき拉致事件を政府もマスコミも長きわたり、黙殺し続けていたからだ。
1977年11月15日、新潟市で下校途中に拉致された13歳の横田めぐみさんは今年、54歳になった。北朝鮮に拉致されたまま41年が経つ。
拉致事件は、1977年、1978年に集中して起きている。特に、1978年7月、8月に、地村保志・濱本富貴惠さん、蓮池薫・奥土祐木子さん、市川修一・増元るみ子さんたち3組のアベックが拉致された。政府は、事件発生直後から北朝鮮の拉致であることを認識していたが、公式に認めるのは10年後の1988年だ。


●1988年3月、拉致を公式に認めた梶山国家公安委員長の答弁は黙殺された

1988年3月26日の参議院予算委員会で、梶山静六国家公安委員長が、蓮池夫妻、地村夫妻、市川さんと松本さんの3組、そして田口八重子さんについて「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚である」という歴史的答弁を行った。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/112/1380/11203261380015.pdf

この発言の契機は、1年前の1987年11月の大韓航空機爆破事件だ。
犯人の1人、金賢姫(キム・ヒョンヒ)が翌1988年1月記者会見で、「私は日本から拉致された女性から、日本人になりすます訓練を受けました」と発言したのだ。
これを受けての3月の梶山答弁だった。だが、日本人の多くはこの歴史的答弁を知らない。マスコミが黙殺したからだ。産経新聞と日経新聞が小さな記事を書いただけだった。NHKも朝日も読売も毎日も報道しなかった。


●1990年9月、金丸訪朝。金日成と面会するも拉致問題を取り上げず

梶山答弁の2年後の1990年、金丸信という自民党大物政治家が訪朝し、金日成に会った。だが、拉致問題を提起しなかった。
国会の参議院予算委員会という正式な場で、「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」との答弁があったのに、政治が見捨てた。


●1991年~8回の日朝国交正常化交渉で、拉致問題が提起されたのは1回のみ

1990年の金丸訪朝を受けて、翌1991年から日朝国交正常化交渉が8回行われた。政府は「機会あるごとに北朝鮮に対して拉致問題を提起。北朝鮮側は頑なに否定」としているが、8回のうち外務省が正式に議題として、拉致問題を取り上げたのは第3回の時の1度きりだ。それも、田口八重子さん(大韓航空機爆破事件の犯人の教育係)のことのみで、1977年の夏、連続して海岸から拉致された3組のアベック、地村さん、蓮池さん、市川さんと増元さんたちのことは、とりあげなかった。


●1997年、横田めぐみさんの拉致が明らかに。「家族会」「救う会」の発足

横田めぐみさんの拉致が明らかになったのは1997年、拉致されて20年後のことだ。契機は、当時私が編集長をしていた『月刊コリア』誌だった。
この時、めぐみさんのご両親は、悩んだ末、実名と写真を公開するに至った。
実名を出しての追求には危険も伴う。証拠隠滅のために北朝鮮が被害者を殺すかもしれない。警察や外務省にもそういう意見があった。
横田早紀江さんは大変悩まれていた。だが、お父さんの滋さんが、決断した。
「20年間何も進展しなかった。政府も何もしなかった。このまま新潟のYさんで報道されたら世間からすぐ忘れられるだろう。拉致問題が明らかにならないまま、また20年が経ってしまう。リスクはあるが実名で世論に訴えよう。世論を信じよう」と。横田夫妻の決断に続き、他の家族も実名公表し、「家族会」の発足となった(97年3月)。家族会発足と同時に、私は、家族の活動を支えるため「救う会」を発足させた。活動は21年目となっている。

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