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活動報告

例会レポート

  • 政経倶楽部第38回例会  平成20年2月8日(金)於・ルポール麹町
    岡田幹彦氏講演会 レポート
代表幹事挨拶・寒竹郁夫氏 (デンタルサポート株式会社代表取締役)

 この政経倶楽部も38回目を迎え、まもなく5年目に入る。2年前、岡田先生には、備中松山藩の山田方谷について講義をしてもらった。山田方谷は知る人ぞ知る、財政再建で有名な政治家であり、今日講義頂く河井継之助は、この愛弟子。わずか10か月だけの師事で、河井は方谷の政治の真髄を学んでおり、やはり天才的な政治家といえるだろう。

 河井継之助というと、司馬遼太郎の『峠』が有名で、名作中の名作と思う。特に印象に残っているのは、「男子たるもの、志を立てなければならない。その心境とは、(自分が死んで)棺桶の中に入って、釘を打たれる瞬間の心境にまで至らないと、事は為せない」というくだりだ。つまり、財産も地位も名誉も、命さえも失ってでも、という心境にならないと、物事は達成できないということだ。

 政経倶楽部主催の旅行も、3月8,9日に、長岡にいく。今日はその意味でも、岡田先生に河井継之助の生涯をじっくり教えてもらいたい。

国政報告・野田佳彦氏(衆議院議員)

 いま税制に注目が集まっている。当面は、道路特定財源問題が最大の焦点。 この制度は、昭和29年、1954年に始まった。当時、道路舗装率は1.5%。一世帯あたりの車保有台数は0.04台。道路整備は極端に遅れ、車のない時代だった。このときに、経済のインフラとして道路が必要とされ、傾斜配分で税金が投入された。かつて石炭や鉄鋼などに傾斜配分をしたのと同様で、戦後まもなくの頃はこれで良かっただろう。戦後の荒廃から立ち直るための緊急措置として、インフラ整備をした。

 ところがその後、高度経済成長、バブル、失われた10年と来て、「もはや戦後ではない」とも言われたが、いまだに戦後復興のための緊急措置が、54年間も続いている。今の時代は、ひとつの財布を道路のためだけに使うのではなく、もっと自由に使えるのでもいいのではないか。それが一般財源化だ。 道路も依然大事だ。しかし、社会保障、子育て支援、教育、環境など、道路以外にも喫緊の課題がたくさんある。それらの政策の優先順位を各地方自治体で決めてもらい、お金を使ってもらうべきだと民主党は考えている。道路もその地域に必要なら、一般財源の中で作ればよい。この方が地方分権の流れに則するものだと考えるが、自治体の首長も含め各方面から抵抗があがっており、今国会最大の焦点となった。...

講演 岡田幹彦氏(日本政策研究センター主任研究員)
『河井継之助』

 山田方谷の愛弟子、河井継之助を扱う。「つぎのすけ」が正式名称。幕末稀有の天才で、匹敵する人間はいないと思う。徳富蘇峰は「河井継之助の人物は、維新三傑の西郷、大久保、木戸を三等分したより上」と言っている。また司馬遼太郎は『峠』で、「幕末期に完成した"武士"という人間像は、人間の芸術品であり、世界に類型のない美的人間である。その典型が河井継之助である」と最後に書いているが、同感だ。まず河井継之助の生い立ちをたどる。

河井継之助の生い立ち
 長岡藩は、徳川譜代の名門。長岡には牧野忠成が初代で転封。74,000石だが、新田開発を進め、幕末には実収が倍になった。元和2年(1616年)以来、200数十年間、同じ地。 牧野家は歴代名君が出た。河井継之助は10代藩主忠雅、11代藩主忠恭から信任され、河井の家柄では本来なれない上席家老まで至る。 藩風は、徳川譜代の中でも、三河武士の質実剛健の気風を最もよく受け継いだ。「常在戦場の四字」「礼儀廉恥と云う事」「鼻は欠くとも義理は欠くなと云う事」「腰は立たずとも、一分を立てよと云う事」「武士の義理、士の一分と云う事」「士の魂は清水で洗えと云う事」「士の魂は陰言なきものと云う事」「何事にも根本と云う事」「日陰奉公と云う事」 この長岡の士風を最もよく継いだのが、河井継之助である。

 河井家は120石の、中堅上士で、代々郡奉行や新潟奉行などを勤めた。河井継之助の父秋紀は勘定奉行を勤め、非常に温厚な能吏だった。風雅のたしなみがあり、良寛と親交があった。母さだは、男勝りの剛毅な人物。子供は男1人(継之助)、女4人。継之助は、父の経営手腕と、母の性格を、受け継いだ。

 河井継之助は文政10年(1827年)、正月元旦に生まれた。同じ年には、西郷隆盛が生まれている。その3年後に大久保利通、吉田松陰とつづく。性格は一生を通じ、強情で負けず嫌い。自信・自負心が強く、才気煥発。勇気と胆力があり、傲岸不遜で反骨漢だった。 16歳で元服したが、この頃はよく勉強し、若い頃のわんぱく乱暴は控えた。読書は多読よりも精読を好んだ。これは吉田松陰も同じで、いいところは何度も読み、書き写した。『太平記』や、佐藤一斎の『言志四録』などを筆写した。この頃陽明学に触れ、以後打ち込む。後に師事する山田方谷は、陽明学の大家。 17歳で「輔国」の誓い。今で言う高校一年生にして、長岡藩を背負って立つ決意をする。そのときの言葉が「天下に無くてはならぬ人となるか、有ってはならぬ人となれ」。特に後半部分が、河井継之助らしいところだ。...

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